金沢中央走ろう会/健康ランニング:情報ボックス
私の健康体力づくり 第56回健康体力づくり講座
 講師:金沢中央走ろう会 代表:天野 耕兵衛
 日時:2004年7月10日13:30〜15:00
 主催:金沢中央走ろう会・石川県健民運動推進本部
 場所:石川県体育協会会議室
 天野代表は、幼少期は病弱でした。学生時代には水泳・野球・剣道などのスポーツを経験。50歳からランニングを始め、ホノルルマラソンに22回連続参加。
 走り始めて34年。 その間、市民ジョギング教室や各種マラソン大会などのイベント、金沢中央走ろう会・金沢ランニングクラブ・金沢レディスジョギングクラブや高齢者ジョギングクラブなどのクラブ活動を通じて、地域の健康ラン、生涯ランの普及に尽力されてこられました。
 今回は、そのランニングライフの集大成を語っていただきました。

「私のスポーツ」
金沢中央走ろう会 代表 天野耕兵衛
 幼少の頃の私は、弱虫だった。祖母が「耕兵衛は、くびが細いから長生きできない」と言っていたのを忘れられない。小学校の低学年では、要保護児童。人工太陽灯の照射治療をうけた。10歳頃から神杜の境内で夕方まで野球。雨天の日は学校で卓球を楽しむ。運動会は鈍足でいつもビリ。小学校の高等科では野球部に入り、左翼手で公式戦にも参加したが、勝った記憶はなし。2年生の夏休みには、毎日海水浴場へ行き遠泳力を鍛える。少したくましくなる。

 師範学校に入学、野球をして甲子園へいきたいと夢見ていたが、戦時下でベースボールはダメ。剣道部へ入る。体力が十分ないのに水泳部の練習もさせられ、夏休みを前に肺門リンパ腺炎を患い休部。さらに2年の秋に腸チフスにかかり隔離入院、生死の境をさまよう。40度の熱が結核菌を殺して、ふたつの病気を同時に治癒。2年生の後半から剣道を再開。4年生で公式の大会に出場。10人あての対抗戦で連続9人抜きの記録をつくり体力に自信をもつ。卒業時に2段となる。また校内の長距離走大会では上位10%以内に入った。体力検定では上級と評価された。

 21歳の徴兵検査は甲種合格。軍隊生活は満州。厳寒と猛訓練に耐える2年間。部隊の剣道大会で優勝したが、部隊長は「天野少尉の剣道では人は切れないぞ」といわれたが、「私の剣道はスポーツです。」と胸をはった。軍隊の後半は、豊橋予備士官学校の教官、毎日のように乗馬の訓練、楽しい体験だった。敗戦で剣道は禁止。第2回の国体でハンドボールを初体験。県下でいち早く中学枝で部をつくり、協会の役員を兼ねて、普及と振興に尽力した。50mの直線走路もとれないグランドでハンドボールや陸上競技を指導して対外試合で優勝することも幾度か。関係者から不思議がられた。30歳頃から教師仲間と毎年北アルプスを主にした登山を続けた。最後の登山は80歳で白馬岳の3回目の登頂であった。45歳をすぎて人間ドッグで検診をうけ、「高脂血症と低血圧と肥満で長生きできない」と警告をうける。

 50歳で県教委の保健体育課長補佐となりデスクワーク3週間で体調がおかしくなる。42歳で米国のコロンビア大学へ短期留学したとき、ジョギングを生活化している市民たちを思い出し、毎朝のジョギングに挑戦する。初日に10分も走れなかった体力にがく然とした。1年間でどうやら8kmを走れるようになり、金沢中央走ろう会を組織する。60歳で教職を退職。ジョギング教室を開き、金沢レディースJC、金沢ランニングクラブ、県高齢者ジョギングクラブをたちあげ普及に努めた。走力がつき、10kmを楽に走れるようになると、各地の大会に参加したが、55歳のときに中高齢者の初フルマラソン大会が多摩湖で開催され、35kmで5分ほど歩いたが、元気でゴールインしたのは忘れない。ホノルルマラソンに初参加したのは60歳。以来、22年連続参加している。ベストタイムは61歳で3時間33分58秒。70歳台になれば6時間〜7時間はかかる。今後も生命ある限り、挑戦していきたい。

 スポーツのお陰で、いきいきと生きる今の私があることを感謝している。

講義の内容
 @私の生涯の健康状況とスポーツ
 A高齢者のトレーニング
配布資料の一部を掲載しています。参考にしてください。
 @レジュメ
 A私のスポーツ
 Bタートル(海亀)ランに徹して−80歳代のランニング−
健康体力づくり講座:第56回の記録は、機関紙『走快』24号に掲載予定です。

【編集長メモ】

 講義で配布された資料のうち、『私のスポーツ』を収録しました。2004/07/12。
健康体力づくり講座健康ランニング:情報ボックス健康体力づくり講座:第56回

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